big5
「さて、今回のテーマは太平天国の乱(Taiping Rebellion)とアロー戦争(Second Opium War, Arrow War)です。クリミア戦争と比べると、日本での知名度はやや下がりますが、両方とも近代アジアにおいてはクリミア戦争よりも重要な事件です。OLさんは、太平天国の乱とアロー戦争にはどんなイメージがありますか?」
名もなきOL
「すみません、アロー戦争は聞いたことないです。太平天国の乱は、名前は聞き覚えがあります。なんだか幸せそうな名前だったので。でも、それくらいしか知らないです。」
big5
「ありがとうございます。たぶん、OLさんが持ってるイメージが、一般的な日本人の多くが持っている太平天国の乱、そしてアロー戦争のイメージだと思います。いつもどおり、まずはあらすじから見ていきましょう。
太平天国の乱は、清の末期に起きた大規模な農民反乱&宗教反乱で、1851年から始まり、終結したのは1864年。なんと、13年間も続いた反乱です。大規模かつ長期間にわたった反乱です。反乱を指導したのは洪秀全(こうしゅうぜん)という、漢民族の人物です。洪秀全は科挙に4回失敗した後、キリスト教に目覚めて上帝会という宗教組織を結成。伝統的な儒教文化や、それに伴う既存の社会制度の改革を掲げて布教を行い、現状に不満を持つ農民らを信者としていきました。スローガンは滅満興漢(めつまんこうかん 満州族(清)を滅ぼし、漢民族(漢)の国を興す)です。1851年、広西省の金田(きんでん)村で蜂起。衰弱しきっていた清軍を撃破して1853年には南京を占領。南京を天京(てんけい)と改称して太平天国の首都としました。
太平天国の勢いは凄まじく、八旗、緑営といった清の伝統的な軍では対抗できません。さらに、1856年からはイギリス・フランスに宣戦布告されてアロー戦争が始まると、清は2つの戦争を同時並行で進めなければならなくなり、たいへんな苦境に陥りました。一方、太平天国は天朝田畝制度(てんちょうでんぽせいど)という、人民に土地を均等配分する制度を立てるほか、昔から続く女性の纏足(てんそく)を禁止するなど、社会改革を進めていきました。
こうして、長期化した太平天国の乱ですが、1860年にアロー戦争が終結すると、清の反撃が始まります。まず、曾国藩(そうこくはん)が、地方の豪族や官僚が独自に集めた兵から成る軍、「湘軍(しょうぐん)」を編成しました。これは、清の正規軍に頼らず、自分たちの力で清を守ろうとする一種の義勇軍です。同様に、清朝末期を支えた英雄・李鴻章(りこうしょう)は「淮軍(わいぐん)を編成し、太平天国に対抗しました。また、アメリカ軍人のウォードやイギリス軍人のゴードンは、清の民衆に西洋式装備と訓練を施して「常勝軍」を編成して太平天国に対抗。これらの勢力に太平天国は敗戦を重ねるようになり、1864年、ついに天京(南京)が陥落。洪秀全は自殺し、ようやく太平天国の乱は終結しました。
太平天国の乱とアロー戦争を経て、列強に敵わないだけでなく農民反乱する鎮圧できないほど清が弱っていることを目の当たりにした清は、李鴻章らが中心となって清の近代化を進める洋務運動が展開されることになりました。スローガンは中体西用(ちゅうたいせいよう 中国文化を維持しながら西洋の技術を取り入れる)です。
年表にすると、以下のようになります。」
年 | イベント | 世界のイベント | 日本のイベント |
1851年 | 1月 洪秀全が金田村にで太平天国建国を宣言(太平天国の乱 始まり) | ||
1853年 | 3月 太平天国軍が南京を占領。天京(てんけい)と改称して首都とする。 曾国藩が湘軍を編成 |
クリミア戦争 開戦 | ペリーが浦賀に来航 |
1854年 | 日米和親条約 締結 | ||
1856年 | 10月 アロー戦争 開戦 | クリミア戦争 終結 | |
1857年 | インド大反乱 始まる | ||
1858年 | 6月 天津条約が締結されるも、発砲事件によりアロー戦争再開 | 5月 愛琿条約で黒竜江州をロシアに割譲 8月 フランスがインドシナに出兵(仏越戦争) |
日米修好通商条約(不平等条約) |
1859年 | イタリア統一戦争 開戦 | ||
1860年 | 北京条約が締結され、アロー戦争終結 | 桜田門外の変 | |
1861年 | ウォードが常勝軍を編成 | アメリカ南北戦争 開戦 イタリア王国成立 |
|
1862年 | 李鴻章が淮軍を編成 | 生麦事件 | |
1864年 | 6月 洪秀全病死 太平天国の乱 終結 | 四か国艦隊 下関砲撃事件 | |
big5
「さて、まずは太平天国の乱を指導した洪秀全について見ていきましょう。洪秀全が生まれたのは1814年、広東省花県の農家の三男として誕生しました。洪秀全の一族は客家(はっか)だったそうです。」
名もなきOL
「客家って何ですか?」
big5
「客家とは、中国南部の土着の人が、彼らとは異なるルーツを持つ別の漢民族の人々、という意味で区別されていた人々のことです。具体的には、主として以下の点が中国南部の地元民と客家の違いになります。
1.発音が違う。現代中国の標準語は異民族の侵攻・支配による影響を受けているが、客家の発音は古代の漢語を継承している。例えば「家」は現代中国語では「ジィア」と発音するが、客家語は日本語とほぼ同じで「カ」とは発音する。このように、日本語の音読みと同じであるものが多い。
2.生活様式が古代漢民族の様式を受け継いでいる。例えば、纏足は客家の女性には無い習慣。纏足が始まったのは、五代十国の終わりくらいの後宮の女性から始まったとされているので、それ以前に南部に逃れてきた客家には纏足の習慣が無かった。
といったところですね。」
名もなきOL
「なるほど〜。太平天国で女性の纏足が禁止されたのは、洪秀全が客家の習慣を持ち込んだからなんですね。」
big5
「そう覚えてもらって、だいたいOKです。細かい話ですが、満州族王朝である清は、中国民衆の纏足にたびたび禁止令を出していました。しかし、中国民衆側で纏足が習慣として根付いていたようです。纏足の習慣が完全に廃れたのは第二次大戦以後になります。」
纏足した足 左足は纏足用の靴を履いている 写真撮影:Albert Friedenthal 撮影年代:1911年
名もなきOL
「足自体がヒールみたい。こんな足だったら、オフィスワークはもちろん、普段の生活もかなりキツイですね。」
big5
「現代人が見るとそう感じますが、当時の中国民衆は纏足した女性を美しいと感じていたそうです。これも、一種の文化ですね。
さて、話を洪秀全に戻します。洪秀全は科挙に4回挑戦するのですが、すべて失敗。失意に沈んでいたある日、自分は神エホバの子であり、イエス・キリストの弟である、という夢を見たことをきっかけに、上帝会を結成しました。上帝会はエホバを唯一神(上帝)とし、キリストは天兄、そして洪秀全は天弟であるとし、偶像崇拝を否定、信者の平等、儒教の弾圧を教義として、清による支配と腐敗した社会構造に不満を持っていた中国民衆に広まっていきました。」
名もなきOL
「上帝会の思想って、清の社会から見るとかなり異質ですよね。信者の平等なんて、フランス革命のジャコバン派みたいですね。」
big5
「はい、その部分が、太平天国の乱がそれ以前の農民反乱とは一線を画している部分ですね。そして、これが太平天国の乱が大規模になった原因であるとも言えます。太平天国の支持者はみるみる増加し、1851年広西省金田村にて洪秀全は自らを天王と称し、国号を「太平天国」と定めました。1853年3月には南京を占領し、天京と改めて太平天国の首都としました。」
big5
「曾国藩は1853年(この年42歳)故郷の湖南省湘郷で農民を義勇兵として集めて軍を編成しました。この軍隊は「湘軍」(しょうぐん)と呼ばれます。また、湘軍のように一定地域の農民を集めた組織を「郷勇」(きょうゆう)と呼びます。曾国藩は清の役人であると同時に儒者としても有名な人物で、多くの弟子を抱えていました。儒教を弾圧する太平天国は、曾国藩とその弟子らにとっては仇敵と言えるでしょう。湘軍のような郷勇は、清の軍体というよりは曾国藩の人望や地縁によって編成された組織であり、清の正規軍としては扱われませんでした。つまり、曾国藩の私兵ともいえる存在だったわけです。」
名もなきOL
「清を守るために編成させた部隊なのに、正規軍扱いしないなんてセコイと思います。こんなことをしているようでは、清は末期症状だと言われても仕方ないですね。」
big5
「まさにそのとおりですね。太平天国の乱を鎮圧したのは清の正規軍ではなく郷勇だった、という事実は後の歴史に大きく影響してきます。さて、こうして結成された湘軍でした、結成当初はまだ弱く、太平天国軍と戦っても敗北していました。湘軍が巻き返し始めるのはもう少し後になります。というのも、太平天国に押されている清を見て、列強が「いい機会だ」と言わんばかりに牙を剥いたからです。」
big5
「次はアロー戦争ですね。ちなみに、英語圏では「第二次アヘン戦争(Second Opium War)」という名前の方が標準的です。Wikipediaでも、第二次アヘン戦争が最初の名前で、アロー戦争が別名という扱いになっています。ただ、日本ではアロー戦争の名が標準なので、ここではアロー戦争と書きますね。
さて、清が太平天国の乱に手を焼いている間、好機到来ということで2つの国が清に目をつけました。イギリスとフランスです。1856年10月、広州でアロー号事件が起きました。この事件は、アヘン密輸船であるイギリス領香港籍のアロー号が、海賊容疑で清の役人に臨検され、船員らを逮捕した事件です。イギリス領事のパークスは、アロー号は海賊ではなくイギリス領香港籍の船であり、臨検の際に清の役人がアロー号に掲げられていたイギリス国旗を引きずり下ろしたのは侮辱である、と猛烈に抗議。これを理由に、イギリスは清に宣戦布告しました。」
名もなきOL
「え!?そんな理由で戦争が起きるんですか?そんなに重大な事件だったんですか?」
big5
「いえ、そこまで重大な事件ではありません。イギリスは、とにかく開戦の口実が欲しかったんですね。実際、アロー号はイギリス領香港籍といっても、既に船籍の期限は切れていたそうです。しかも、引きずり降ろされたイギリス国旗の件も、本当にそんなことがあったという証拠はないそうです。」
名もなきOL
「やり方が姑息で汚いですね。イギリスのイメージが悪くなっちゃうわ。。」
big5
「そんな後ろめたさがあったかどうか、はわからないのですが、イギリスはフランスを誘いました。ちょうどこの頃、フランス人のカトリック宣教師が布教中に捕らえられ、拷問された挙句に殺される、という事件が起きていました。ナポレオン3世のフランスは、宣教師殺害事件を理由に宣戦布告しました。イギリスよりはまともな理由ですが、人ひとりの命で戦争を仕掛けるのも、やはり大袈裟ですね。
ただ、宣戦布告はしたものの年が明けた1857年にイギリス領インドでインド大反乱が発生したため、英仏両軍が本格的に動き始めたのは1857年12月になってからでした。英仏両軍は、まず広州に攻め込んで清の総督を捕らえます。アヘン戦争の時と同じく、軍事力の差は歴然としていました。英仏両軍は、軍艦で北上して首都・北京にほど近い天津に攻め込み、1858年5月に砲台の一つを占拠しました。
英仏軍が首都・北京の間近まで攻め込んできたことを知り、時の清の皇帝・咸豊帝(かんぽうてい この年27歳)は肝を潰し、翌月6月に講和。天津条約が締結されました。」
名もなきOL
「英仏の目論見通り、清はあっさり敗れてしまったんですね。なんとなく想像つきますが、天津条約はどのような内容だったんですか?」
big5
「主な内容は以下の通りです。
@清は外国行使の北京駐在を認めること。 これまで、列強の行使は広州や香港、上海に駐在していたのですが、清の首都は北京です。清朝政府と直接交渉するには、時間も手間もかかりすぎていたんですね。これまで、清朝は野蛮な外国人である「夷狄(いてき)」が北京に入ることは許さなかったのですが、力づくで認めさせられることになりました。
A清はキリスト教の布教を許可すること。 清は雍正帝の時にキリスト教布教を禁止していたのですが、これも力づくで認めさせられることになりました。
B清は賠償金として、イギリスに400万両(テール)、フランスに200万両(テール)の銀を支払うこと。
C清は南京を始めとした長江沿岸や海岸沿いの10港の開港すること。
D清は、Cに伴い外国艦船の長江通行権を認めること。
といったところです。広州を落とし、船に乗って天津まで行って砲台を占領するだけで、これだけの内容が引き出せたのですから、清が英仏に完全に舐められていたことがよくわかりますね。
それと、これに乗じたもう一つの列強がロシアです。天津条約が結ばれる前、ロシアのシベリア総督・ムラヴィヨフは、清に対して英仏との講和を仲介してやる代わりに、黒竜江以北とロシア領と死、ウスリー川以東の沿海州は清とロシアの共同管理とする、という愛琿条約(あいぐん)を結びました。実際、ロシアは天津条約を仲介して署名にも加わっています。火事場泥棒も驚くほどのやり口ですね。」
名もなきOL
「列強がやってることはヤクザと一緒ですね。国際社会は本当に厳しいな・・・。。」
big5
「時代がそうだっとはいえ、まさにその通りですね。さて、天津条約の内容を見て驚いたのが清の政府です。特に野蛮な「夷狄」が北京に入るという条項が大問題となり、天津条約を認めないという話になりました。清は英仏使節が北京に入ることを拒否したばかりか、イギリス領事のパークスらを捕らえてパークスのお供らを惨殺するという暴挙に出た他、イギリス軍に発砲したために再び戦争が再開。今度は天津どころか北京まで英仏軍が侵入することになりました。この過程で、パークスは助け出されました。その後、パークスは日本に赴任し、幕末動乱に関与することになります。
しかし、英仏両軍は捕虜の救出だけでは収まりません。北京で略奪を行うのですが、中でも有名なのが円明園の焼失事件です。清の豪勢な離宮であった円明園が英仏軍の略奪に遭い、さらには放火されて焼け落ちた、という事件が起きました。円明園は、清が全盛期であった1700年頃、康熙帝の治世にカスティリオーネ(中国名は郎世寧)の設計で作られ、その後増築された、バロック式の庭園です。フランスのヴェルサイユのような庭園だったそうです。」
名もなきOL
「列強もヤクザですけど、清もけっこうなことをしてますね。。」
big5
「現在の円明園は、破壊された時とほぼ同様の姿で残されています。これを復元するかどうか、の話があるようですが、今のところは一部復元を行う、という見込みらしいですね。
さて、清の咸豊帝は北京を捨てて熱河に逃げたので、北京に残っていた官僚と英仏軍の間で、1860年、天津条約が批准されると共に、新たに北京条約が締結されました。主な内容は
@賠償金は総額で800万両(テール)に増額すること。
A清はイギリスに九龍半島南部を割譲すること。
B新たに天津を開港すること。
C清は沿海州を放棄してロシアに譲渡すること。
です。賠償金の増加に加え、開港地に天津を加えられ、さらに香港の北にあたる九龍半島南部、そしてロシアには沿海州までも奪われる、という散々な目に遭ったわけです。列強が得たものも大きいですが、なんといっても一番得をしたのは、黒竜江州と沿海州の2つを手に入れたロシアでしょう。実際、沿海州はロシアが望んでいた不凍港があります。その港が、有名なウラジオストクです。「ウラジ」とは「支配」を意味し、「ボストク」とは東を意味します。街の名前が、ロシアの野望を表現していますね。ロシアの次の標的は、朝鮮と日本です。
こうして、アロー戦争は終結しました。北京に外国行使が駐在するようになると、諸外国との交渉を行う専門の部署である総理衙門(そうりがもん 「衙」とは役所の意味)を設置しました。意外に思えるかもしれませんが、これまで歴代中国王朝は、外交を専門に扱う国の機関はなかったんですね。清はこれまで歴代王朝が抱えてきた華夷思想(中国が世界の中心であり、中国以外の外国はそれより劣った国)に基づき、朝貢貿易しか認めてきませんでしたが、列強はこれまでの諸外国とは段違いの軍事力を持つ、恐ろしい相手だったわけですね。その恐ろしい相手と渡り合う役割が、この総理衙門です。正式名称は総理各国事務衙門、なのですが、総理衙門で覚えておけばOKでしょう。
かなりの煮え湯を飲まされ、伝統的な華夷思想も改める必要に迫られた清ですが、一方で太平天国の乱の終焉も見えてきました。太平天国は、内部抗争を繰り返して以前ほどの勢いを失っていたんです。」
big5
「衰え始めた太平天国を滅ぼすのに活躍したのが、常勝軍です。当初は、アメリカ軍人のウォードが率いる外国人傭兵部隊だったのですが、その後中国人を兵士として雇って、西洋人を指揮官、兵士が中国人という構成の洋式軍隊になりました。ウォードは1862年に戦死し、紆余曲折を経た後にイギリス軍人・ゴードンが常勝軍を率い、1864年5月、太平天国の支配地域が天京だけになったところで常勝軍は解散となりました。」
名もなきOL
「西洋人指揮官と中国人兵士って、映画『ラストサムライ』みたいですね。」
big5
「そうですね。『ラストサムライ』の時代設定は明治になって間もない頃なので、この時代に近いですね。実際、明治政府は当初は様々な分野で「お雇い外国人」を雇って、日本における技術の近代化を進めました。この時代のアジアを象徴するかのような組織ですね。
さて、もう一つ、活躍したのが1862年に李鴻章(この時39歳)が結成した郷勇の淮軍(わいぐん)です。曾国藩の湘軍にならって、李鴻章の故郷である淮南地方で兵を招集して組織されました。淮軍は太平天国の乱が鎮圧された後、様々な戦いにも参加して経験を積み、やがて清の中でも最有力である北洋軍へと成長し、日清戦争における清の主力部隊となるのですが、これは後のお話。李鴻章は、清の政治家としてこの後も登場するので、是非覚えておきましょう。
一方、太平天国は内紛と清の反撃で急速に瓦解しはじめ、首都・天京が包囲される中、1864年6月に洪秀全は病死(この年50歳)。それから間もなく、天京は陥落して長かった太平天国の乱はようやく終焉しました。」
big5
「太平天国の乱、そしてアロー戦争は、列強の強さと清の弱体化を印象付けるような事件でした。清は、李鴻章らを中心に西洋技術を取り入れて近代化に取り組みました。この動きを洋務運動と呼びます。洋務運動のスローガンは中体西用、つまり、清の文化を残しつつ、西洋の技術を取り入れるというものでした。洋務運動は一定の成功をおさめ、当時の清は一時的ではあるものの安定していたため、この時期を皇帝の名前を取って同治の中興と呼びます。ちなみに、アロー戦争で北京を捨てて逃げた咸豊帝は1861年に病で亡くなったため、息子の同治帝がわずか5歳で即位していました。
洋務運動は、日本の明治維新と比べられることがあるのですが、私はこの2つは似て非なるものですね。」
名もなきOL
「どうしてそう思うのですか?」
big5
「明治維新では、戊辰戦争を経て徳川幕府が倒され、明治新政府が誕生しました。つまり、旧政権が打倒されたわけです。明治維新は、従来の日本の国制を維持したまま西洋技術を取り入れたのではなく、従来の国制を打ち砕いた後に実行されたので、その徹底ぶりが洋務運動と違います。洋務運動は、中体西用というスローガンにも表れているとおり、現体制を維持しながらの技術取込みになるので、根本的な部分は変わらないです。」
名もなきOL
「なるほど。戊辰戦争はたいへんな惨劇でしたけど、国がガラっと変わったことは間違いないですね。」
平成30年度 世界史B 問題12 選択肢3
・ゴードンは、常勝軍を率いた。〇か×か?
(答)〇。上記の通り、ゴードン率いる常勝軍は太平天国の乱鎮圧に活躍しました。
しのぎを削る列強 目次へ
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